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正覚院(山寺)は,高い山の上の緑豊かな自然の中にあります。 私たちは,親しみを込めて「山寺さん」と呼びますが,正式には「真言宗大本山 妙智山 正覚院 観音寺(しんごんしゅうだいほんざん みょうちざん しょうがくいん かんおんじ)」といいます。天平年間(729~748年)に開かれたという,きわめて長い歴史をもっています。 山寺は理源大師誕生の地でもあります。大師というのは,仏教の学問を深く修行し,お坊さんとしての勤めや,毎日の生活がきわめて立派であったお坊さんに,朝廷がおくった尊敬の呼び名の最高のものだそうです。この大師の呼び方をされるお坊さんは,全国で22人,そのうち5人が讃岐の国(香川県)出身です。 大師は幼名を恒蔭王(つねかげおう)といわれました。母の綾子姫は,夫の葛な王(くずなおう)が九州に行かれた後を慕って大宰府に行く途中,本島に着かれ,ここ本島の正覚院(山寺)で832年に大師をお産みになりました。 大師は16歳で出家され,後に京都の醍醐寺を創建されたり,古今和歌集・後撰和歌集などにも歌が残されています。 大師がまだ若く,修行中であられた時のある夏のこと。母上がご病気になられました。この知らせに,大師は大急ぎで本島に帰られました。母上の休まれている部屋は,真夏の強い西日が差し込む場所でした。心配された大師は,病室の窓際に1本の松を植えられました。すると,その松の木はたちまち大木に成長し,病室をすっぽりとおおって,西日をさえぎったということです。島の人々はこの松の木を「孝子の松(こうしのまつ)」と呼び,長く大師の徳を語り伝えました。今は,これがその松だという木は残っていません。 大師は909年7月に亡くなられ,1707年(800年忌)に「理源大師」の謚号がおくられました。 山寺のご本尊である「聖観世音菩薩像」は,鎌倉時代初期につくられたもので,国指定の文化財です。言い伝えによると,天平年間(729年~748年)に行基菩薩がここに来られ,備前(岡山県)にあったしきみの大木を取り寄せつくられたものだそうです。こういう言い伝えが残っているのに,今あるご本尊は,鎌倉初期(1200年頃)につくられたものでひのき材を使った寄せ木造です。言い伝えられる仏像の消息や,今の仏像の起こりなどの記録や伝承はありません。 33年に1年だけ人々が拝むことを許される,かくされた仏様で,次のご開帳は2034年だそうです。 ご本尊の両側に立っている毘沙門天像と不動明王像も国指定の文化財です。 ご本尊と同じくひのき材の寄せ木造で,お顔立ちや掘り方などから,ご本尊を含めた3体とも同じ人の作であると考えられています。このことは,きわめてまれな重要なことで,国指定文化財とされた理由の一つにもなっているそうです。 山寺には,以下のようなものが残されています。 線刻十一面観音鏡像(牡丹獏文鏡)は,直径19.8cmの鋳銅製の鏡です。鏡の面に蓮の花の上に座っておられる十一面観音菩薩と,その下の方の左右に立っておられる吉祥天(きっしょうてん)・婆薮仙人(ばすうせんにん)のお姿を彫ってあるというが,毛彫りという彫り方で線が細く,なかなかわかりません。「牡丹」とあるが,これもわかりにくいものです。「ばく」とは,狛犬のような姿です。 永徳元年在銘鰐口(わにぐち)は,仏殿表の軒下につるして,お参りに来た人が綱を振り動かして鳴らす鈴です。平たく大きい鈴の口がワニの口みたいなのでこの名前が付きました。直径33cm,厚み12.1cm,重さ7.5kgで,彫り込まれてある文字から,1381年のもので,もとは大川郡寒川町(今のさぬき市寒川町)のお寺のものであったことがわかります。 応永28年在銘懸仏は,普通,神社の本地仏(ご本尊)のことで,この中の一番大きい1枚は裏の書き付けから1421年のものであることがわかります。もとは長楽寺のものであったこともわかります。一番大きいもので,直径29.7cm,厚さ1.2cm,重さ52.5gです。一番小さいものは,直径12,1cm,厚さ0.9cm,重さ37.5gです。 大般若波羅密多経などもあります。 |
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床下の柱に昔の千石船の舵が使われています。 山寺からは美しい瀬戸内海が一望できます。 山寺には,夏祭りなどいろいろな行事があり,たくさんの人々が訪れます。 |
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