塩飽勤番所(朱印状・咸臨丸)
午前9時~午後4時まで(休館月曜:祝日の場合は翌日)
入場料:おとな200円・子ども100円(団体は30名以上2割引)
0877-27-3540
本島港から約800m

 「塩飽勤番所」は,塩飽全島の政治が行われたところです。
 将軍より,朱印状(領地を与えたり,特別の権利を許可するときに朱印を押して出した手紙。一般には黒印ですが将軍だけは朱印を使った))をいただいて,自治領になりました。
 昭和45年,国の重要史跡に指定されました。

 まず目にとまるものが,正面の4段の石段です。長さ4.7mの長い石には,どこを見ても継ぎ目がありません。2本の柱がどっかりと乗る石には,ていねいに削って細工がしてあります。
 また,長屋門りょうがわの角の石は,L字型になっている大きな1枚石です。
 東西に延びる長屋門の石組みは,どこを見ても整然としていてとても美しいものになっています。
 目立たないところに細工があり,見れば見るほどに味わい深い石組です。
 門内につるしてある龍吐水も珍しいものです。

主屋

 昭和45年に国の重要史跡に指定されましたが,老朽化が激しくなったので,昭和52年3月に2年間をかけて復元工事が行われました。
 復元は,本館・長屋門・番人部屋・朱印庫・土塀や板塀など,勤番所全体にわたって行われました。

表庭

 まず,いかに復元するか,専門の方々を中心に調査研究を重ねたそうです。風呂場を見ても,木で作った風呂桶にしています。昔は,熱いお湯を運んで桶に入れ,水を注ぎながら湯加減を整えていました。トイレにしても木で作られ,腰に差している刀をおく棚までつくられています。昔の日常生活まで研究しなければならないので,建物全体になると大がかりな復元工事となりました。材料はほとんど昔のままの物を使っています。屋根瓦も3分の1ほど補っています。

織田信長の朱印状

「堺津に至る塩飽の船上下の事,先々の如く異儀有るべからず,万一違乱の族これ有らば成敗すべき者也 天正五 三月廿六日 信長朱印  宮内卿法印」
とあります。これは,
「堺港への上り下りの塩飽船には,航海中も停泊中も,船から船づな75尋(1尋はおとなが両手を広げた長さ:約100m)以内に近寄ってはいけない。もし,この決まりを守らない船があると,罰を与えるようにしなさい。」
と堺の代官である宮内卿法印松井有閑(まついゆうかん)に命じたものです。
 信長からこのような特権が認められたことから,塩飽船の権威がいかに高かったかが伺われます。
 この朱印状には有名な「天下布武」の朱印が押してあります。
 現在は,市の指定文化財となっています。

豊臣秀吉からの朱印状

 天正十四年(1586年),九州の島津氏を攻めるために,讃岐の領主仙石権兵衛などを派遣するから,50人が乗れる船を10艘出すように命じたものです。
 その後,秀吉は全国統一をするためにいくつもの大きな戦いをしましたが,塩飽水軍はその都度兵士や食糧の輸送で功績を挙げたので,天正十八年(1590年)に塩飽領1250石を650人の船方に与える朱印状を発行しました。しかし,この朱印状は今は残っていません。後に徳川家康から同じような朱印状を受けたので,そのときに引き替えたものだろうといわれています。

徳川家康からの朱印状

「塩飽検地の事
 一 弐百弐拾石 田方屋敷方
 一 千参拾石  山畠方
 合 千弐百五拾石
 右領知当島中船方六百五拾人に先判の如く下され候の条,配分せしめ全く領知すべきものなり
 慶長五年九月二十八日
 塩飽島中」
※「先判の如く」とは,既に秀吉から朱印状を受けているので「今まで通り」という意味です。
 これにより,船方650人は,塩飽領1250石の領主となり,幕府の御用船方として活躍する事になります。

徳川秀忠からの朱印状

「当島中 田方屋敷方 弐百弐拾石 山畠方 千参拾石 都合千弐百五拾石事 慶長五年九月弐拾八日先判の旨に任し船方六百五拾人にこれを下さる者也
 寛永七
 八月十六日
 塩飽島中」

2代将軍からも,寛永七年(1630年)同じ内容の朱印状を受けています。
これ以降は発行されることなく,明治に至るまで人名領が続きました。

徳川家は15代まで続いているのに,家康・秀忠の2代しか朱印状をもらっていないことを心配した島民に「家康・秀忠に書状をもらっているので,これからは徳川の続く限り朱印状がなくても差し支えないので,安心しなさい」という「領地安堵の沙汰書(りょうちあんどのさたしょ)」が届けられました。

徳川家親藩の高松藩と丸亀藩の漁場争いの時に大岡越前守忠相が署名した裁許状

「かなて(瀬居島沖の鯛のたくさん獲れるところ)が塩飽のものだという証拠に塩飽から出された書物は申し伝えのものばかりで,塩飽の釣り場と定めたものが一通もない。一方,高松には,他国の釣り船を番船で追い払ったという記録が,浦役所の書面に記入されているから,金手は高松のものと思われる。しかし,かなての全てが高松のものだという証拠も高松にない。よって今般定めるところは,瀬居島・小瀬居島と室木島の東端を見通し,西面は塩飽領,東面は高松領とし,鰆瀬は従来通り双方の入会とする。」

この境界線は,今も守られています。

 朱印状は,黒塗りの箱(三つ葉葵の紋)→袋→黒塗りの箱→白木の箱→石櫃→朱印庫というように,厳重に守られています。

 日本人の手で初めて太平洋を横断した「咸臨丸(かんりんまる)(幕府軍艦)」は,長さ49.7m,幅7.3m,百馬力,3本マスト,625tの木造船で,オランダ製でした。
 咸臨丸の操縦にあたった乗組員50人のうち35人が塩飽島民でした。
 古くから造船・航海に優れた技術をもち,幕府の船方として活躍していた塩飽島民の技術が認められたためです。

 咸臨丸のアメリカ渡航が,日米親善に,西洋文化の輸入に,我が国の航海史上に大きな貢献をしたことはいうまでもありません。サンフランシスコで撮影した乗組員のガラス写真・キヤマン(ガラス)の水ビン・コップなど,お土産品として持ち帰っている品々が残されています。石川政太郎さんの書いた「渡米日記」は,スケッチ風の絵も描き込まれていて,貴重な資料となっています。悪天候が続いて航海が困難な時には,干飯(ご飯を炊いて乾かしたもの)をかじって,その場をしのいだことなどが記されています。


(参考:「地域から学ぶ本島の歴史と文化」本島小学校昭和57年刊
     「塩飽水軍の島本島へいっぺん来んかな」本島しまおこし実行委員会平成13年刊)
写真協力:本島町塩飽勤番所